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「自分を客観的に見ろ」とかいう不可能で無意味な戯言・世迷言

 

…これはまた、どこぞに喧嘩売っているような発言ね。
突然ですがボクは「自分を客観的に見られるようになれ」とかしたり顔で言ってくる人が大嫌いです。
というのもボクは「自分を客観視する」なんて不可能だし、そもそも無意味だと思っているのでその辺りを語ってみます。

 

 

自分を客観的に見るのは”不可能”

 

「自分を客観視することは不可能」というハナシをする前に、まず『客観的』の意味を見てみよう。

 

きゃっかん‐てき〔キヤククワン‐〕【客観的】

[形動]
1 主観または主体を離れて独立に存在するさま。⇔主観的。
2 特定の立場にとらわれず、物事を見たり考えたりするさま。「客観的な意見」「客観的に描写する」⇔主観的。

引用:コトバンク

 

『主観的』の対義語よね。ちなみに主観的の意味はといえば…。

 

しゅかん‐てき〔シユクワン‐〕【主観的】

[形動]
1 表象・判断が、個々の人間や、人間間の心理的性質に依存しているさま。⇔客観的。
2 自分ひとりのものの見方・感じ方によっているさま。「主観的な考え」⇔客観的。

引用:コトバンク

 

いわば主観とは”自分のフィルター”。主観的とは「”自分のフィルター”を通して見る」行為であり考えに対して客観的とはその逆であるワケだけど…。
そもそも、一切の主観を排除して物事を観るなんて可能なのか?というハナシだ。

 

 

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例えば「ゾウは大きい」…これは主観的?客観的?
客観的だと思うわ。10人中10人が「大きい」と答えるはずだもの。
じゃあ「クジラと比べたら」?
それは「小さい」だと思うけど…そんなの屁理屈じゃない。
違う。ボクが言いたいのは「人間は物事を観たり判断するときに必ず何かと比較している」ということだ。
それは、確かにそうね。「象は大きい」にしても人間や身の回りの動物と比較しての判断よね。

 

 

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突き詰めていけば、人間が人間社会で生きている限り絶対に自分のフィルター“という『偏見』が備わっている」といえる。

 

偏見 へんけん prejudice

ある対象,人,集団などに対して,十分な根拠なしにもたれる,かたよった判断,意見などをさす。このような判断や意見は強固なものであり,それらが誤っていることを示す証拠をみせられても容易に変らない場合が多い。

引用:コトバンク

 

どれだけ中立的に物事を観ようとしても、絶対に偏見は排除できない。その人独自の価値観や判断基準で物事を観ている。客観視なんて不可能だ。
それなのにわかったかのような口ぶりで「自分を客観視できるようになれ」という人が、ボクは大嫌いだ。

 

 

「自分を客観視する」ことに意味はない

 

そしてもう一つ「自分を客観視する」という言葉が嫌いな理由。それは自分を客観的に見ることに何の意味もないからだ。
そんなことは無いでしょ。自己分析をしたり、自分の短所や長所を見つけたり…。
…分析するところまではわかる。けど“短所””長所”という判断は主観でしょ?
例えば仮に自分を分析した結果「自分は無口である」という特徴が判明したとして…これを”長所”と判断してそのままにするのか”短所”として改めようとするのか?その時点で100%主観になるよね。
確かに。短所も長所もコインの裏表みたいなもので、見方に過ぎないものね。
要は、仮に自分を客観的に分析できたとしても…得た情報を結局は”偏見”というフィルターを通して主観で観るんだから自分を客観的に見ることに何の意味も無いよね、というハナシ。

 

 

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何が言いたかったかというと、人間はどこまでもいっても主観で物事を観ているし偏見で判断している。
それなのに「客観的に見ろ」とかもっともらしいことをエラそうな口ぶりで語る人がキラいです、というハナシでした。
(…「自分を客観的に見ろ」と言う人に親でも殺されたのかしら?)

 

 

ありがとうございました。