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「自分を客観的に見る」。

いつ頃からか見聞きするようになったこの言葉。

さも論理的で、賢いかのようなこの言葉にボクは強い違和感を覚えている。

 

というか自分を客観視するなど不可能だと考えている。

「自分を客観的に見ろ」という人は、

本当にそんなことが可能だと思っているのだろうか?

 

 

「客観視」という浅慮

 

ボクがなぜ「自分を客観視~」を否定するのか。

その理由は主に3つだ。

 

  1. 「客観視」が不可能
  2. 「客観的な視点」が存在しない
  3. 「客観視」に意味はない

 

今回は、「客観視」が不可能な理由を掘り下げてみる。

 

そもそも「客観視」とは何か?

 

客観視とは「客観的に視る」から来た言葉だろう。

では「客観的」とはどんな意味か?

 

客観視
読み方:きゃっかんし

物事を自分の利害や感情などを除いた観点で考える、客観的に考える、などの意味の表現

引用:Weblio辞典

 

辞書を引くとこうある。

意味を紐解くほどに「客観視など不可能だ」との想いが強くなる。

 

 

「客観的」は可能であるが…

 

さて。

辞書の一節「物事を自分の利害や感情などを除いた観点で考える」から見ていこう。

「自分の利害や感情を除く」…これは可能である。

 

例えばコップを見たとき、

「これはコップである」と考えることだ。

『コップ』という情報のみを認識する見方、といっても良いだろう。

 

 

「コップは飲むための道具」という主観

 

だがこれを「飲料を飲むための道具」と認識した時点で客観的から外れる。

なぜならコップを「飲む」以外の用途で利用する人もいるからだ。

彼らはコップを「楽器、音色を奏でる道具」として見るだろう。

 

「いやいや、コップは飲み物を飲むために作られた道具だろう」。

こういう反論があるかもしれない。

 

だが現にコップを楽器として用いている方々がいる以上、

その考えは”主流”ではあっても”絶対”ではない考え方だ。

これもまた主観である。

 

 

偏見のない人間などいない

 

人間には『偏見』というフィルターが存在する。

 

偏見 へんけん

ある対象,人,集団などに対して,十分な根拠なしにもたれる,かたよった判断,意見などをさす。このような判断や意見は強固なものであり,それらが誤っていることを示す証拠をみせられても容易に変らない場合が多い。

引用:コトバンク

 

辞書にもあるように『偏見』とは一般的には「誤った」「悪意ある」見方とされる。

改めるべきだと思われるがどんな人間も『偏見』のフィルターは存在する。

 

もっと突き詰めて表現すると、

「自分の利害や感情などを除く」ことが不可能なのだ。

 

例えばイヌを見て「カワイイ」と表現する。

これは偏見である。

なぜならイヌを見て「怖い」「汚い」と思う人もいるのだから。

 

次にイスを見て「座る」を連想するのもまた主観だ。

踏み台にする、物を乗せるなど用途は色々だ。

「椅子は座るための物」などと定められてはいない。

 

 

他にもウシを見るとどんなイメージをするだろうか?

「動物」「家畜」「食べ物」などではないだろうか。

だが世界には牛を「神の遣い」と見る人々もいる。

 

偏見の意味を引用すれば「家畜」と「神の遣い」…どちらが

「ある対象,人,集団などに対して,十分な根拠なしにもたれる,かたよった判断,意見」なのだろうか?

仮に「牛を神の遣いと見ることが偏見」と断ずるならその根拠はなんだろうか?

 

結局のところ人間が人間である限り偏見は存在する。

「自分」という主体から見れば「主観」になるからである。

自分を切り離して物事を判断することなど不可能だ。

 

 

「自分を客観視」など不可能だ

 

さて。

ここまで「人間は万物を主観で見ており、客観視など不可能」という話だった。

…そんな人間が「自分を客観視」など可能だろうか?

 

例えば自分を「暗い性格」だと分析したとする。

…その根拠は?

「暗い」と評価する基準はなにか?

 

「暗い性格」に定義など存在しない。

恐らく自分の周囲にいる明るい人たちと比較してのことだろう。

その時点で「主観」が混じっているのだ。

 

人間が人間である限り。

「自分」という目線を完全に切り離すことなどできない。

「自分を客観視」などという利口ぶった主張にダマされてはならない。

 

 

乱筆御免